ナワをつぐもの。

イラストをやる人ですが、ここでは主に考えてることやエッセイなどを嗜みます。

習慣化(週刊化)宣言

エッセイを書きたくなった。

 

いや、ぼくがなにかをやりたくなるときなんて大抵、「ぼくにもできるんじゃないか」という気になっている。

 

村田沙耶香の「きれいなシワの作り方」を読んだ。おもしれーんだ、あれ。

収録されているエッセイは連載されたものだ。だから、たぶん週に一本とか、そんなものだろう。

 

ぼくは毎日なにかを続けるとかそういうことが絶望的に苦手だから、意気込んでブログなんぞ始めたり、個人的に日記を始めたりしても絶対に続かない。

 

意志が弱いと言われても否定しないが、ぼくは気分屋だし、いろんなものをおもしろがってしまうモテる女みたいな性格をしているので、何かをやっていないときは、別の何かをやっているということでもある。

 

でも、週に一記事程度ならなんとかなるかもしれない。毎日はさすがにネタがない。

キンコンの西野さんは毎日書いていた。しかもそんなにテーマに変化があるわけではないのに、けっこう読ませる。

忙しいからゆっくり書いているわけでもないだろうに、なんなんだあの人は。

 

ぼくとは違って、毎日同じことができるタイプだろうと思う。目的のためなら自我を抑えて、淡々と決めたことを遂行するタイプ。

 

世間的に成功していたり支持を受けているような人は、そういう人が多いような気がしていた。

例を挙げると、イチロー村上春樹などもそうである。

 

ストイックというか、目的に対してドライだ。憧れもするし、最近までぼくもそんな人だろうと思っていた。何を始めても結局続かなくて、そのたびに落ち込んだりもした。

 

どうやらぼくはそういう人ではないらしい。昨日あたり実感したが、ぼくの中にはシーズンのようなものが常に移り変わっていて、今は例えば「読書楽しいシーズン」だったりする。

 

映画大好きシーズンもあれば勉強大好きシーズンもあるのだが、好きなことをしたり楽しんでやっていたりするときの方が吸収率がいいような気もするので、そのときの気分には逆らわない方が、ぼくに向いている気がする。

 

それって結局普通だよな。

ぼくは案外普通な人間らしく、ちょっと安心したりなんかした。

 

ブログにしても、続くような書き方がしたい。

 

 

 

コミュ障の一番長い日

大晦日です。

特に意欲的に記事を書くこともなく過ごしてしまい、気がつけば年末。

卒業制作の真っ只中で、てんてこ舞いです。

 

今年もいろいろありました。

いやほんとに、この半年でもいろいろあったくらいですから、一年で見たらすごくギュウギュウに詰まった、イカめしみたいな日々でした。

 

高3の夏から祖母の家で暮らしているぼくとその母親ですが、今年も今年で、千葉からいとこの一家がやってきました。

 

母からすれば、弟とその家族が来たということ。ぼくにすれば、その家の3人の子どもたちはいとこです。

 

千葉家(仮称)と祖父母、そしてぼくと母の、計9人で迎える年末年始は毎年恒例になっています。

去年は長男が高校を受ける年だったのがあって来なかったけれど。

 

その長男はとても背が伸びて、声もすっかり低くなりました。かつていっしょに遊んでいた幼い頃とは比べられない、ほんとに大人びた雰囲気を携えています。

 

妹と弟も、ちびっこな感じが少し抜けて、ものすごく会話らしい会話ができるようになり、ますます一家が和気藹々としている感じでした。

 

さてこの和気藹々というやつなんですが、どうもぼくには無縁の長物でして、毎年これには参っているところもあるのです。

 

マンツーマンの会話ならだいぶできるようになりましたが、あんな大人数のコミュニケーションなど、たとえ友達同士でもぼくは苦手です。

たぶんあの子たちは、大人になってもそこで苦労したりはしないんだろうなあ。…長男はちょっとその気があるような気もしますが笑 大きな家族の長男ってプレッシャーなんですってね。彼、あの一家にしては暗いし、昔は母親にしょっちゅう突っかかっていました。

家以外では、友達も多くて運動部にも入って活躍してる、快活な少年なんですけどね。

 

母の家がそもそも、その千葉家のお父さんともう一人、計二人の弟がいる大家族ですから、母親はその長女だったわけです。

そして母はどっちかというとオタク系で、ちょっとひねくれたところが。やっぱり兄弟のトップは屈折があるようです笑 たいへんなんだなあ。

 

その弟であるおじさんもそうだし、そのおじさんの家で生まれた子どもたちも、はなからそういう大人数に囲まれているという育ちですから、大人数のコミュニケーションに苦労しなさそうなのはとてもよく理解できる。

 

ぼくの家は、幼い頃から父親が他県で仕事している上に、母親も仕事で会社に勤めていました。

そして一人っ子でもあったので、とにもかくにも一人遊びばかりしていましたね。

そもそも育ちが全然違うんです。

 

小学校に上がって以来、今でも一番好きなのは、二人きりとかマンツーマンでのコミュニケーション。

大勢に混じって会話するのは本当に苦手です。

 

それに母はデザイナー、父は作曲をしている人間です。

家には漫画、演劇、映画などのカルチャーがふんだんにあって、両親ともにそういうのが好きな人ですから、ぼくもすっかり同類に。

メインなコンテンツをあまり見ていないせいで、会話の食い違いが多いです。

ことに千葉家はそういう血が流れていないので、こういうオタク気質な人はいないようです。

ますます話すことがないというか、タイプとして苦手なんだよなあ。

 

とはいえ、いくら苦手だとか、育ちが云々とか御託を並べても、それだからコミュニケーションを避けるなんてことは、ぼくは個人的に罪悪感があります。

 

彼女もかなりタイプが似ているんですが、たぶん「大人気ない」というんじゃないかな。言われたことあるし。

たしかに、自分のいいたいことややりたいことしかできないのは子どもだと思う。どんなに論理的に正しい言動だとしても。

 

それに世の中には、どんなにマイナーな趣味があったり、芸大やそういうところで一生懸命やっていても、まったくコミュニケーションを苦にせずやれている人もいます。

うらやましいですよね。そういう人はたぶん、いくら卒業制作が忙しくとも、夕食くらいは付き合って、軽く学校の話とかしたりして、ちょっと申し訳なさそうに部屋に戻るんだろうな。

 

できないなあ。やっぱり苦手だ。

ちなみに今日も夕飯すっぽかしてしまいました。昼寝しすぎて、起きて少しした頃にはもう、食べる頃だったんですよね。

部屋で蒙古タンメン食べてます。

おいしいけど、滑稽だなあ。

 

どうしたらいいんでしょう?

社会人になっても正直、仕事を言い訳にできるんなら喜んで帰りたくないんだけどなあ。

 

ああなんかもう、あらゆることにごめんなさいって感じ。

割り切りたいなあ。

献心からのスタート

ニートというのは、外部からの評価を拒み、自己評価とのギャップを感じることを拒否している人々であるということを、内田樹さんの「下流志向」で読んだことがあります。

 

外部評価よりも自己評価の方が高いというのは、程度の差こそあれほとんどの人がそうです。

その差が、年齢的に激しい場合もありますね。いわゆる中二病だったり、意識高い系と揶揄されたりというあれです。

しかし人は、その差をなくす努力をしたり、逆に自己評価を下げ、自分と自分の人生に綺麗に折り合いをつけたりすることで、そうした時期を徐々に脱するもの。

 

その手段が教育だったり労働だったりするんですが、教育を受けず、働きもしていないニートは、自己評価だけが肥大し、かつそれの確実性を脅かされることを拒んでいる人々なのであるという考え方です。

 

自己評価と外部評価のギャップ。これに人は、案外しょっちゅう苦しみます。

そしてそれは、主にコミュニケーションによるものだと思うんです。

 

ぼくはコミュニケーションというものをほとんどしません。

ぼくは母の両親と母と、4人で暮らしています。ですが、母とはよく話すのですが、祖父母とはほとんどまったく。用もないし、ぼくにはぼくで、やること、やりたいことがあるから、結局部屋にこもっているか、外に出ているかということになるのです。

 

学校にも友達は1人もいません。

話す人がいないでもないけど、友達とはっきりといえる人は、1人もいないのです。

おまけに、ほぼすべての先生からは、ほっといても自分でやれる人だと思われているし、一人でひたすらストイックにやっているせいで「ほっといてくれオーラ」が無意識のうちに出てしまい話しかけられることもなく、世間話すらない始末。

 

コミュニケーションが著しく不足している日常を過ごしつつ、勉強したり考え事をしたりしていると、先述した不幸なギャップが日に日に増大していったりします。

 

普段は、へんに自分に自信があったりするもんだから(クラスで一番勉強していると信じているから)平然と、もとい堂々としているのですが、たまに他人の、自分よりがんばっているのを見たり、自分より賢いのを見たりすると、すごく落ち込んでしまうのです。

 

その人たちと普段から接していて、その人たちのことを少しでも知っていればそんなことにもならないのですが、勝手にコミュニケーションを拒んで勝手に自分が一番だと思い込んでいるぼくのような痛い人は、こうして訪れるギャップに耐えられない。

 

それにここ半年の間に初めて彼女ができたりして、つくづく「他人は鏡だ」と思い知らされます。

自分はこんなに嫌なやつだったのかと、だめなやつだったのかと、いつも悩まされるのです。

 

友達が多い人っていうのは、いつもそういう「鏡の中の自分」というものに目を凝らしているんだと思います。

中にはそこで間違った頑張り方をする人もいるけど、鏡に囲まれているからこそ、謙虚な心や、優しさや、ブレない自分のスタイルが育まれていったりするものなのかもしれません。

いい人だから友達ができるのではなく、人と付き合い続けていくと、性格や人当たりがよくなっていくものなのかもしれません。

 

そんなことを、最近はよく思います。

そして、そういうことを思うのと同時に、本当に自分がいやになる。

 

よかれと思ったり、ぼくにとってはすごく当たり前のことだったり、ぼくはそれをすごく大切に思っていたりするんだけど、そういう思いから出てくる行動や言葉で食い違いが発生して迷惑をかけたり、性格の悪さに気付かされたりすることが、数えきれないくらいありました。

 

本当に彼女に申し訳ない。

誰ともコミュニケーションをとらなかったツケが回ってきたのだと思います。

いわばぼくは、今まで鏡を見ずに髪型を作って、服を選んで、しかもそれをほとんど人に見せなかったのです。

人前に出た途端、そうして積み上げてきたもので、目を汚し、恥をかき、結局自分自身を苦しめてしまうのです。

自分を磨いていたつもりが、ただ磨いていたつもりなだけだった。

 

もうほんとに、生まれ直したいくらい自分がいやだ。

過ぎ去った時間の取り戻せない故の尊さを、ぼくはこの頃よく思わされます。

ぼくはほとんど、身になるものを積み上げなかったのではないのでしょうか。

人の役に立ちたいとか楽しませたいとか建前を並べて、やりたいことだけやって、今までそれができた試しがあるのでしょうか。また、これからできる見込みがあるとでも。

 

ぼくに残された道は、「ある」と無理矢理にでも信じて精進し続けることだと思います。

でも、その発想からすでに違うような気もする。

 

もういっそ、髪型も服も全部雑誌か友達の真似をして、みんなみたいに就職して、適当に趣味を持って、気軽に生きていこうかなんて思うこともあります。

自分らしくなんて言わずに、むつかしい本を読むのもやめて、ひろゆきの放送やホリエモンチャンネルなんて見るのもやめて、ユーチューバーのゲーム実況でもみて、漫画でも読んでた方が、少なくとも半径1キロ以内の人のうち、誰にあたっても友達になって、楽しませることができるんじゃないだろうか、なんて思います。

 

わかっていたけど、自分のやりたいことをやるっていうのは、ほんとに修羅の道。

結果が出て、人としてもある程度のレベルに行けるまでは誰も幸せにならない。

大器晩成という都合のいい言葉を信じて頑張り続けるしかない悲しさ。

 

もちろんそれでいいんです。

小学生の頃から、そうするしかないと思っていた。

でも、その悲しさに挫けそうなときもおります。

 

誰に何を言われても笑ってられる鋼の心か、誰に何も言われないバランスか、どっちかが欲しいです。

さもなくば、生まれ直したい。

 

だから、いま生まれ直します。

これからは、そばにいる人のために生きる。結局それが、自分のためになるんだと思いつつ。

 

人生これすなわち修行。

後戻りできません。

弱音のひとつ、せめてたまには。

単位「今夜は寝かさないよ」

今週のお題「芸術の秋」

今日もお題でやってみましょう。

 

最近は、映画も観ていないし新しく本を読んだりもしていないので、なかなか「ああブログ書きてえ」とはならない毎日です。

しかしそんなぼくもデザイン学生ですので、秋も飽きも関係なく(ナワくん渾身のry)芸術三昧の日々を送っておりますよ。

 

そういう意味で結果的に近況報告をする流れになるんですが、最近も最近でなかなか忙しいです。

というより、卒業制作が本格的に始動して、いよいよ大詰めというところでしょうか。

 

いまは火曜日の授業の課題と、水曜日の授業課題がすごく大きのがありまして、土曜日もそれをやっていたかんじです。

先週以前は、それらの大きな課題がスタートしたのと同時に10月末にターナーアワードの第一次審査の締め切りがあり、締切日にはもう一泊二日の研修に出かけるといった具合で、目が回りました。同時に、「ああ、ちょうど去年もこんな感じだったなあ」とも思いましたね。

 

去年のその頃は(今頃もですが)、病院内で食器洗浄のアルバイトをしておりました。

今はやってないんですが、あの頃の学校とバイトの両立と同じくらい、先月は大変でした。

今年は特にターナーアワードの制作時間が劇的に短く、その他の授業課題も重たいものばかりで、正直キャパシティ超えてました。さらにぶっちゃけると、完成させることもできないままに終わってしまう結果となりました。残念。

去年がクオリティ的に悔しい結果だったので今年こそはと思ったのですが、去年以上に出来が悪かったです。

進歩した点があるとすればアイデアにかけた時間の長さですが、実作業がそのせいでほとんどできなかったことを考えれば、五十歩百歩というところ。

 

学生限定のコンペなので、もう応募することはできません。一切の栄誉を知らぬまま、ぼくは学校を卒業します。かなしいなあ。でも仕方ない。

 

そのリベンジも兼ねて、なんとしても卒業制作は頑張りたいというところ。

ラフのクオリティをまず高くして、本制作ではラフ以上の完成度と密度でやりたいですね。

中村佑介さんは、ラフと完成作品のクオリティをほぼ同じくらいに制作されますが、あれは本当にメリットがあります。ぼくも実際、完成させて初めて、もっと描き込みたかったとか、このモチーフを変更したいとか、色を変えたいとかということがありますから、ラフにも同じクオリティを出せればそういった修正も可能になります。

ただ、専門学校のような過密スケジュールでそれができるかというのは疑問ですが。

 

一つの課題にたっぷり時間をかけたいというのは、おそらくほとんどの学生が思うところであります。しかしながら、課題の平均的な制作時間は短い。うーむ。卒業したら自分で頑張るしかないですね。

 

ひどいときはその日のうちにとか、水曜日に出た課題を今週中にとか、そんな締め切りもあります。先生曰く「デザイナーはこういう急な仕事がほとんどです」ということらしいけれど‥‥。

 

ぼくはちゃんとした実力をつけたいので、プロと同じことをする練習を反復するよりも、ちゃんと長い時間と集中力で一つの作品を完成させ、実力を伸ばし、同じ制作時間で仕上げられるクオリティを時間とともに上げていきたいのですが、そこが専門学校の方針と食い違うところなのかもしれません。

 

うちの学校も就職に全力を挙げていますし、たくさんの検定受験や、コンスタントな課題提出などもあり、とにかく即戦力の育成が大前提のようです。

企業のニーズがそもそもそこであるらしいので、就職が前提なら仕方がない。

 

ぼくのような就職しない組は、付いて行くのもたいへんです。

 

急いで仕上げて、本来の実力の70%のクオリティなんだけど、それでもお金と交換するのに堪えるクオリティにできるようにする。中村佑介さんは、それが大事だとおっしゃっていました。

それには、「本来の実力」とやらをとにかくあげないといけないのです。

早く仕上げる訓練だけして、長い時間をかけてもせいぜい1割増のクオリティというのでは、就職してもその後が見えないんじゃないかな。

 

なーんてことを考えたり。

完全に課題が進んでないことの言い訳ですね笑

 

笑い事ではないんだ……やらねば‥‥‥

とにかく、卒業せんばねーこって。

 

私には言いたいことがある!

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

やってみようと思います。

 

 

ふと思うことがあったとき

 

目の前で起こったことや自分が体験したこと、会った人のことについてなど、自分に入ってきた情報をきっかけに、問題提起や自己分析、法則性の発見などが、ある程度のまとまりになって浮かんでくることがあります。

 

ぼくはそんなとき、Twitterの少ない文字数で投稿するのが苦手ですし、リプという形で長々と書き連ねるのも、それはそれでTwitterでやる意味がないと思う。

 

なのでそんなとき、ブログを書きたくなります。

 

 

映画や書籍などの感想を言いたくなったとき

 

こういう刺激を受けて、玉突き現象のように言葉が口をついて出てくることは、誰でもあると思います。

ぼくも全く同じで、ただ上述の理由で、長く書きたくなってしまうだけですね。

 

 

続くか不安になったとき

 

ぼくは小学生の頃からネット環境があったので、ブログにも関心がありました。

最初は「一畳プラレール」というブログが好きで、自分もプラレールで真剣に遊んでみたくなったのがきっかけで、ブログをやっていました。

 

しかしその後、続かなくなる→ブログを消す→新しくはじめて仕切り直す→というループに突入。

その経験から今では、「続かなくなるかもしれない」という不安も、モチベーションの一つになっています。最近また停滞しているので……。

 

 

はじめてお題で記事を書くことにしました。

最近ネタがなかったり、うまくまとまらなくて下書き保存してそのまんまになる記事ばかりで、更新が滞っていたからです。

 

自分の考えや言いたいことを、伝わるべき時に伝えられる能力を育てるには、日頃からアウトプットに慣れておく必要があると思うんですよ。

たとえば、就活で面接の練習が必要な理由も同じで、普段から自分と同じような人とツーカーのコミュニケーションをしていて、改めて自分の考えをわかりやすく、聞きやすく伝える必要がない生活に慣れきっているからですよね。

 

ぼくはYouTubeひろゆきさんの話を聞くのが好きです。

そのときみた動画の出典はおそらくニコニコ生放送だろうと思うんですが、そこでひろゆきさん以外の方がしゃべっている時に、伝えられる、聞いてもらえる力の差をすごく感じました。

 

ひろゆきさんは一切どもったり噛んだりせず淡々と意見を述べられるんですけども、他の人は自分でも言いたいことがうまくまとめられていない。その上ひろゆきさんにいつのまにか刺激されて、この人と同じくらい賢いことを、いい感じで言わなきゃみたいなプレッシャーに襲われていて、実力以上の発言をしようとしてしまうんですよね。

 

だから、力んでいることだけは伝わるんだけども、肝心の意見そのものはスムーズに伝わってこない。

これは、普段から自分の意見や人間性を言語化したり、まとめたり、伝えたりしているかどうかの差だと思ったんです。

 

ぼくも、これが足りてない。

だから例えばひろゆきさんに会えるというようなラッキーがあったとしても、全然それを活かせないと思う。

だからこそ、自分の意見をスムーズに言える練習をしようと思ったんです。

 

コミュニケーション能力というより、言いたいことがあることの方が、コミュニケーションには重要なんですよね。小手先のコツより、内容。

で、自分は何を言いたいのかっていうのは、言ってみないと案外わからない。

 

人間はそういう生き物らしいですからね。

とにかくしゃべろう、書こうってこと。

そういう心がけでいようと思います。

 

お題っていうのはその意味で便利。

これからもお世話になろうと思います。

学校がはじまったらすぐに更新しなくなるこのわかりやすさ。

 

とにもかくにも課題づくしで、かつ研修旅行も重なると、相変わらずのハードスケジュール。

もういっそ、夏休みや春休みなんてなくていいからもっと余裕あるスケジュールでやりたいレベルです。

 

そんな感じで、書く暇がない…というわけでもないけど、書くという発想自体をそもそも忘れてしまいました。

頭の中は常にやることでいっぱいです。

 

しかしそんな生活に、プライベートのとある一件で、さらにストレスが発生。

少し暗雲立ち込めています。

 

2月の時点で、男性としては標準、あるいはそれよりは少し長いくらいの髪の毛でした。

そろそろ切ろうかなあというくらいの長さでしたが、なんとなく伸ばしてみることを決意。

半年たたないくらいでゴムで結べるほどになり、最近までに、後頭部にぶら下がる尻尾はどんどん成長していました。

 

しかしぼくはその間、とある人のとある要望をずっと受け続けていました。

それは、「後ろと横を刈り上げてほしい」。

 

その人は鳥肌実という人が好きだそうです。ぼくも知らなかった。有名ではないと思う。

しかしその人は鳥肌実という人の髪型と目つきが好きだそうで、ぼくの目つきもなんとなく近いそうで、あの髪型にしてほしいそうで…。

 

でもってナチスの軍人がどうの北朝鮮がどうの、なんだかぼくには理解できない趣味をいろいろお持ちで、自分好みにぼくをカスタマイズすることに余念がないその人。

鍛えて軍服着てほしいとかなんとか、リクエストは絶えません。

 

でもって、夏休みくらいからずっとずっと、あんな髪型にしてほしい、してほしいと、何度断ってもしつこくしつこく、頼まれていました。

あそこまで諦めずに、懲りずに頼まれると、ぼくの性格上「喜ぶ顔が見たいなあ」と思ってしまうのです。

そうして先日、折れました。

 

つい先日まで、前髪を左寄りに垂らしてポニーテールにしていたぼくが、鳥肌実ヒトラーのような、過度な刈り上げに長い前髪。

「尻尾が無くなるだけだから、シルエットではそんなに変わりないから」と言われていたのが完全に嘘だと思うくらい、盛大に印象が変わりました。

 

自分ではあの人の感覚はよくわからないので、美容室に同行してもらい、スタイリストにぼくの代わりにあれこれ言ってもらいました。

明らかにスタイリストさんは困惑していた…ような気がします。

「いいようにされてると思われてるんだろうな…」とか思ったりして、ずっと嫌な汗が。

 

平静を装いたかったものの、つい落ち込んでおりました。

するとあの人にも良心はあったらしく、文字通り「泣いて」謝られる始末。

これで、わがままの限度を知ってほしいという思いもあったので、今後はもう少し自重してもらえたらいいですね。

 

ぼくはイラストレーター志望なので、「わかる人にわかればいい」とか「好きな人は好き」とか、そういうものを作ったりやったりするのには、最近は興味がないのです。

 

好きなミュージシャンは星野源推してるゲーム会社は任天堂

「みんなに」愛されているものや、人を選ばないものを作ろうと努力している人が大好きなんです。

 

だからいくら、今の髪型をあの人にべた褒めされようと(されています)、あるいはそういう趣味を持っている人にいくら

褒められようと、ぼくはそんな狭い世界には興味がない。

この髪型で例えば企業訪問なんか絶対にしたくないし、先生と面談すらしたくない…。

 

髪型や服装は人間性を表すものだと思っていて、好きなものより似合うもの、というのがぼくの主義です。

似合うというのは、容姿や性格も含めて。

そういう意味では、いまの髪型は完全に、ぼくのキャラではない。

 

前の髪型はぼくの性格に合っていたし、ぼくも気に入っていました。

「尻尾がなくなるだけ、結んでたのが刈り上げになるだけだからシルエット的にはいっしょ」という言葉だけが希望で、念を押して確認をとっていました。

しかし元からそうなるはずはなかったのか、あるいはスタイリストに注文しながら暴走したのかはわかりませんが、結果的に似ても似つかぬありさまに。

 

家族にもクラスメイトにも、道行く人にすら見られたくないなあ。似合う似合わない以前に、「こういうキャラ」と思われるのがほんとに嫌です。誤解以外の何者でもない。こんな個性の人ではないですぼくは。

 

しかも別に強制されたわけではないので、あくまで根負けして「自分の意思で」切ったわけなので、まちがってもあの人を責められないという二重苦。

鏡を見る、あるいは髪について考えるたびに辛いです。だから褒められても辛い。

 

はけ口のないモヤモヤを、せめてここに発散させてください。

はやくこんな髪型から脱したい。

もとの長さにするまでには、また1年以上はかかるはずです。

 

伸ばしてた頃の目標は、ヘアゴムで結べるまで、でした。性格には、そのとき理想としていた髪型ができるまで。

 

伸ばし直す上で設定する目標は、「お団子ができるまで」にします。

あるいはかんざしでとめられるまで。

 

ほんとに…あの人には、ごめんなさい。

理想が違うんです。共存しましょう。

うまいものを食うのは正義ゾイ

モロボシダンの名を借りているコンビニといえば?

 

そう、セブンである。

 

はるかな星がふるさとである故、食品系セブンオリジナル商品のクオリティは高いのである。

 

最近は疲れからか、蒙古タンメン中本のカップ麺がやたらおいしいです。

今朝も食べたし、2時44分である今も食べました。いやあおいしい。

世の中のカップ麺の中で一番好き。

 

クラスの男子は今度の東京への研修旅行で、中本のラーメンを実際に店に食べに行こうとしているみたいですね。

たしかにいい機会だ。

ぼくもいってみようかしら。

 

あとは、チキンバーガーがおいしかった。

以前食べたマッシュルームソースのはみ出しチキンバーガーがすごくおいしかったから、新しく売っていた、ケイジャンチキンバーガーとやらをつい買ってしまいました。

 

中本のカップ麺にはまってしまって以来、辛いものが好きになったぼくの目に飛び込んできた「辛い」の文字。

いざ食べて見たら、前のはみ出しチキンバーガーと同クオリティのチキンと、ソースから香るタバスコの風味がすごく合っていて、おいしかった。

 

セブンはゆず辛チキンもおいしいし、鶏肉系はハズレがないですね。

 

コンビニATMという改革を起こし、コンビニコーヒーという市場を開拓し、こんなにおいしいオリジナル商品を多数展開するセブンイレブン

こんなに素晴らしいコンビニがほんとにあるのか。

 

結論、ぼくはやっぱりセブン推し