ナワをつぐもの。

イラストをやる人ですが、ここでは主に考えてることやエッセイなどを嗜みます。

献心からのスタート

ニートというのは、外部からの評価を拒み、自己評価とのギャップを感じることを拒否している人々であるということを、内田樹さんの「下流志向」で読んだことがあります。

 

外部評価よりも自己評価の方が高いというのは、程度の差こそあれほとんどの人がそうです。

その差が、年齢的に激しい場合もありますね。いわゆる中二病だったり、意識高い系と揶揄されたりというあれです。

しかし人は、その差をなくす努力をしたり、逆に自己評価を下げ、自分と自分の人生に綺麗に折り合いをつけたりすることで、そうした時期を徐々に脱するもの。

 

その手段が教育だったり労働だったりするんですが、教育を受けず、働きもしていないニートは、自己評価だけが肥大し、かつそれの確実性を脅かされることを拒んでいる人々なのであるという考え方です。

 

自己評価と外部評価のギャップ。これに人は、案外しょっちゅう苦しみます。

そしてそれは、主にコミュニケーションによるものだと思うんです。

 

ぼくはコミュニケーションというものをほとんどしません。

ぼくは母の両親と母と、4人で暮らしています。ですが、母とはよく話すのですが、祖父母とはほとんどまったく。用もないし、ぼくにはぼくで、やること、やりたいことがあるから、結局部屋にこもっているか、外に出ているかということになるのです。

 

学校にも友達は1人もいません。

話す人がいないでもないけど、友達とはっきりといえる人は、1人もいないのです。

おまけに、ほぼすべての先生からは、ほっといても自分でやれる人だと思われているし、一人でひたすらストイックにやっているせいで「ほっといてくれオーラ」が無意識のうちに出てしまい話しかけられることもなく、世間話すらない始末。

 

コミュニケーションが著しく不足している日常を過ごしつつ、勉強したり考え事をしたりしていると、先述した不幸なギャップが日に日に増大していったりします。

 

普段は、へんに自分に自信があったりするもんだから(クラスで一番勉強していると信じているから)平然と、もとい堂々としているのですが、たまに他人の、自分よりがんばっているのを見たり、自分より賢いのを見たりすると、すごく落ち込んでしまうのです。

 

その人たちと普段から接していて、その人たちのことを少しでも知っていればそんなことにもならないのですが、勝手にコミュニケーションを拒んで勝手に自分が一番だと思い込んでいるぼくのような痛い人は、こうして訪れるギャップに耐えられない。

 

それにここ半年の間に初めて彼女ができたりして、つくづく「他人は鏡だ」と思い知らされます。

自分はこんなに嫌なやつだったのかと、だめなやつだったのかと、いつも悩まされるのです。

 

友達が多い人っていうのは、いつもそういう「鏡の中の自分」というものに目を凝らしているんだと思います。

中にはそこで間違った頑張り方をする人もいるけど、鏡に囲まれているからこそ、謙虚な心や、優しさや、ブレない自分のスタイルが育まれていったりするものなのかもしれません。

いい人だから友達ができるのではなく、人と付き合い続けていくと、性格や人当たりがよくなっていくものなのかもしれません。

 

そんなことを、最近はよく思います。

そして、そういうことを思うのと同時に、本当に自分がいやになる。

 

よかれと思ったり、ぼくにとってはすごく当たり前のことだったり、ぼくはそれをすごく大切に思っていたりするんだけど、そういう思いから出てくる行動や言葉で食い違いが発生して迷惑をかけたり、性格の悪さに気付かされたりすることが、数えきれないくらいありました。

 

本当に彼女に申し訳ない。

誰ともコミュニケーションをとらなかったツケが回ってきたのだと思います。

いわばぼくは、今まで鏡を見ずに髪型を作って、服を選んで、しかもそれをほとんど人に見せなかったのです。

人前に出た途端、そうして積み上げてきたもので、目を汚し、恥をかき、結局自分自身を苦しめてしまうのです。

自分を磨いていたつもりが、ただ磨いていたつもりなだけだった。

 

もうほんとに、生まれ直したいくらい自分がいやだ。

過ぎ去った時間の取り戻せない故の尊さを、ぼくはこの頃よく思わされます。

ぼくはほとんど、身になるものを積み上げなかったのではないのでしょうか。

人の役に立ちたいとか楽しませたいとか建前を並べて、やりたいことだけやって、今までそれができた試しがあるのでしょうか。また、これからできる見込みがあるとでも。

 

ぼくに残された道は、「ある」と無理矢理にでも信じて精進し続けることだと思います。

でも、その発想からすでに違うような気もする。

 

もういっそ、髪型も服も全部雑誌か友達の真似をして、みんなみたいに就職して、適当に趣味を持って、気軽に生きていこうかなんて思うこともあります。

自分らしくなんて言わずに、むつかしい本を読むのもやめて、ひろゆきの放送やホリエモンチャンネルなんて見るのもやめて、ユーチューバーのゲーム実況でもみて、漫画でも読んでた方が、少なくとも半径1キロ以内の人のうち、誰にあたっても友達になって、楽しませることができるんじゃないだろうか、なんて思います。

 

わかっていたけど、自分のやりたいことをやるっていうのは、ほんとに修羅の道。

結果が出て、人としてもある程度のレベルに行けるまでは誰も幸せにならない。

大器晩成という都合のいい言葉を信じて頑張り続けるしかない悲しさ。

 

もちろんそれでいいんです。

小学生の頃から、そうするしかないと思っていた。

でも、その悲しさに挫けそうなときもおります。

 

誰に何を言われても笑ってられる鋼の心か、誰に何も言われないバランスか、どっちかが欲しいです。

さもなくば、生まれ直したい。

 

だから、いま生まれ直します。

これからは、そばにいる人のために生きる。結局それが、自分のためになるんだと思いつつ。

 

人生これすなわち修行。

後戻りできません。

弱音のひとつ、せめてたまには。