邪道だろうがぼくはこれを「百合漫画」として推す

 

読むんだ。

 

 

ハルチン

ハルチン

 

 

 

それ以前にまず、あなたは魚喃キリコという氏の存在を知るべきと思うのだが、いかがか?

 

 

氏、名をナナナンという

 

難読な名前が麗しいこちらの漫画家だが、名を魚喃(なななん)キリコという。

言われなければ読めないだろう。ぼくだって読めなかった。

 

こんな偉そうな口を叩いておきながらなんだのだが、こちらの方は作品が3つほど映画化もされているすげー人なので、知ってる方もおられることと思う。

 

たとえば『blue』という作品は安藤尋監督により映画化され、市川実日子さんが主演を務めた。シンゴジの早口お姉さんだぜ。すげえよな。

 

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 最近だと2017年に『南瓜とマヨネーズ』が映画化されている。

こっちは読んでないしみてない。すまない。

『ハルチン』を読み返したことで再び魚喃熱がぶり返してきたので、そのうち買う。

 

 

狂おしく愛らしい“ハルチン”と“チーチャン”の物語

 

タイトルになっている“ハルチン”は、主人公のハルコの愛称である。

といっても、いつもいっしょにいるチーチャンとしかほとんど会話がないので、作中にこの本名が出ることはない。

というか登場人物らしい登場人物はこの2人しかいない。

1話2ページの、雑誌「Hanako」の連載作品なので、けっこう4コマ漫画的な、片隅でささやかに誌面をもりあげてくれてそうなかんじ。

 

2人は同じバイト先。

20代前半、フリーターの女の子たち。

女子力(死語)の高い、そこそこ教養もあるチーチャンに、 頭が悪くてガサツなハルチンは、いつもため息をつかれている。

 

それでもバイト先でも家でも、ふたりはいつもいっしょ。

チーチャンには彼氏がいるけど、しょっちゅうお互いの家でお泊まりしている。

わかりやすく例えると、チーチャンがことりちゃんで、ハルチンが穂乃果ちゃん。

つまりことほの。(ただし2人は“キャラ”っていうより“人物”である。あんなぷわぷわーおな関係性を期待してはいけない)

 

ハルチンは、作者がそうなせいか新潟出身。

『ハルチン』『ハルチン2』の2冊の中で、何回か実家の親と電話するシーンがあるのだけど、バリバリの新潟弁が見られるのが同じ新潟人としてほっこりする。

そこもまた、いい感じに都会人なチーチャンと対比になっていておもしろい。

 

というか『ハルチン2』の巻末には魚喃先生自身が出てくるエッセイ漫画『ナナナン』が収録されているのだが、はっきりいって魚喃先生のご自分の描写とハルチンの振る舞いは瓜二つ。

完全にハルチンは魚喃先生の自己投影だと思うしかないのだが、そのせいか3話目やそこらの初期の時点では、チーチャンの扱いに作者が困ってる感じが否めない。

 

しかし後半、特に『ハルチン2』になると、チーチャンのキャラがすごく立ってきて、ブレ気味だったキャラデザも完全に定着。立派に2人の漫画となっていて、正直にいうとぼくは『2』ばかり読んでいる。

 

他にも、10年ほど続いた連載中にすごく成長しているのが見てとれる。

 

そんなわけでこの漫画の見所はたくさんあるので、ぼくの絵描きとしての観点からも、この作品の魅力をお伝えする。

 

 

あなたは壁であり天井である

 

ハ:チョコが ムッショーに食べたい

チ:食べればいいじゃない

ハ:だって自分じゃ買えないもん

 (略)ホワイトデーのマジュマロとかクッキーよりだんぜんチョコだよねー

 もらうんだったらチョコのほうがいいなー

チ:ハルチンマシュマロとかクッキーとかくれる人いるの?

ハ:だ…だからーァ マシュマロもクッキーもほしくないのあたしはッ

     チョコが食べたいのッ

チ:だから…食べれば?うるさくて仕事できない…

ハ:自分で買って食べんのなんてムナしいじゃあーんッ

    ねーチーチャンあたしにチョコ買ってよォー

チ:じゃホワイトデーにビバユーのくつ買ってくれる?

ハ:え そーゆーもんなの?男と女って……

    キャー じゃああたしもチョコあげて家買ってもらおー

チ :(ハルチンを見ずに)だからだれにィー?

 祥伝社『ハルチン』104、5ページより

 

 

腐女子のひとが「天井になりたい」「壁になりたい」とぼやいてるのを割と見る。

百合厨にも同じことがいえる。

 

これはその作中人物の関係性に混ざりたいとか、ほんとにそのキャラに会いたいとかは思わずに、置物や壁や天井になって、存在すら意識されずにただただ眺めていたいという嗜好を表している。

 

そしてこの作品を読んでいるとき、ひとは壁や天井になる。

 

この2人は何も特別なことはしないのである。

ハルチンのアパートでテレビを見ながら鍋をつついたり、バイト先で駄弁ったり、店でパスタ食べながらカップルの客をちらちら見たり……

 

ハルチンは身の程知らずなローンを組んだり趣味のバービー人形に散財(魚喃先生もしてる)したりするし、チーチャンはしょっちゅう彼氏と喧嘩したり、ハルチンに付き合ったり振り回されたりしている。

 

女性であれば「あるある」とうなづき、男であれば「へえ女の子って…」とか「そういえば女の子って…」などと思えるほどに、日常感、生活感、既視感に溢れているのだ。

そしてそんな2人の日常が、当たり前ながらも楽しそうなのである。

 

そして我々は、アパートの天井やバイト先の店の壁になったりして、紙の向こうで今日も普通に生きている2人を眺めるのだ。こんな幸せなことがあるか。

 

ぶっちゃけ「天井になりたい」とかってほんとに変態性が高い願望だと思うのだが、『ハルチン』に関してはそれが特に顕著だ。何がって、2人の生活や会話の「本当っぽさ」がすごいのである。

 

もちろんある程度キャラを立てられているから実録って感じでもないが、だからこそいい塩梅になっておもしろく、かつ女の子の生態を観察している気分にもなり、女性ならさぞや共感するだろうことと思う。

女性同士によるコミュニケーションはほんとに独特なものがあると思うから、男としてもたいへん興味深い。

 

あと文字起こしして思ったが、魚喃先生はセリフで感情を伝える書き方がうまいなあ。

小さいカタカナとか、語尾を伸ばすとか、そのへんの使いこなし方がほんとにすごい。

同じセリフであったとしても、書き方次第ではここまでその場の空気が感じられることはないと思う。

 

 

見出し

 

ときに女の子は、雑談における平均下ネタ率がやや高めな男性陣ですら引くくらいのエロいことやエグいことをいうところがあるような気がする。

 

ハ:(略)あたし……セーリとまっちゃった

チ:え……ま まさかっ まさかハルチンッ

ハ:は?……あ や …あーだチーチャンそォんなんじゃないってば──っ

チ:(略)……でしょうね

    (略)体が必死にシグナル送ってんのよきっと

    あ…それともハルチン もしかしてもうアガっちゃったとか?

 :……ひっどーいチーチャンかわいいカオして(書き文字)

 祥伝社『ハルチン』32、3ページより

 

個人的に好きなのは

 

ハ:夏だからほら 夜道はチカンで危ないじゃん

チ:ようかん一本食べる女なんか誰がゴーカンしてくれんのよッ

祥伝社『ハルチン』46、7ページより

 

 のとこあたりである。

 

こういうやりとりも何気なく入ってくるのがおもしろい。

そしてこういう会話は、女性作者が女性キャラ同士にさせてるからこそ意味があると思う。

 

へたに狙ってやってしまうと、この手のシーンはすごくさむい。しかし魚喃先生は女性同士のコミュニケーションの感覚を染みつかせていて、かつそれを表現する力があるから狙ってる感は0。ほんとに2人の日常の中で生まれた偶発的で刹那的な瞬間なんだという感じがあって、それがいいんだよね。

 

余談だけど、やっぱり魚喃先生はあんまり男性に関心がないのかもしれない。

少なくとも、創作対象としては。

あるいは女の子を熟知しすぎてて描きやすすぎるのだとも思える。

女子校出身というのが納得。

 

『blue』は女子高生同士の恋愛を描いた物語だったし、図書館で読んだ短編集でも、すごく作中の女の子になりきって描いている感じがあったような気がする。

正直すべての作品を読んだわけではないけど(まあ作品数が多い人ではないが)、今の印象としてこんなことを考えてみた。

 

 

『ハルチン』でわかる魚喃キリコのすごさ

 

 

魚喃先生の特徴といえば、いい感じにデフォルメされた、イラストチックな線主体の人物の描き方である。

 

アニメに「ロトスコープ」という技法がある。ahaの“Take on me”のPVでおなじみの、実写の人物の動きをトレースしてアニメにする技法のことだ。

 

この技法で重要なのは、「どの線を選ぶのか」ということ。

実写をトレースするわけだから当然やや写実的になるわけだが、あまりにもトレースする線が多すぎると、どんどん実写みたいな見た目になっていって気持ち悪い絵面になってくる。

 

闇金ウシジマくん』は逆に、その気持ち悪さを活かした作品だと思う。

そんな感じの作風は多くなってるから、ほんとに漫画家の平均画力は上がっているんだなあ。

 

『ハルチン』初期の頃は、まだ線が若干荒いというか、本物っぽい生々しさが残っていた。あとつけペンの使い方にも若干の不慣れさが見えており、線が荒れているような感じがしていた。 

 

しかし『ハルチン2』になると、「何コマ、何ページ描いてもキャラの顔が安定している」「線が細く、綺麗になっている」「さささっと描いた感じだが、省略の仕方や細かいところがやたら上手い」といった変化が目に見えてわかる。

すごく、プロっぽさが増しているのだ。

 

そして推していきたいもう1つのポイントが、この漫画がフルカラーだということである。

 

初期は色鉛筆による着彩がたまにみられるも、大半はコピックによるものだった。

『ハルチン』後半3分の1くらいから以降はずっとパソコンによる着彩になっていくのだが、色がすごく綺麗なのだ。

 

画力の向上も相まって、まるでヨーロッパのバンドデシネのような、眺められるレベルにまで届こうかという画面の見栄えになっていく。

さささっと描いて、色鉛筆でざざざっと塗ってた雑誌の片隅に置いてあったような漫画が、読み進めていくごとに、2ページの見開きで、それ専用にページを割いていてもおかしくないくらい、おしゃれになっていくのだ。

どんな風に掲載されていたのかはしらないが。

 

画力についても、人間のささいなポーズがすごく上手いし、髪の生え際、毛の流れ、服のシワ、食べ物、背景など、すべてが上手いし、みやすい。

でもそんな神経質に描いてる感じもまったくなくて、ラフさと上手さの絶妙なバランスが、みていて気持ちいのだ。

 

『ハルチン』は他の作品を読んだ人からすると、お話的にも、画風的にも魚喃先生らしくない作品だと最初は思う。

それは先述のラフさでもそう言えるし、人物の描き方でも言える。

特に目が、他の作品には見られないレベルでデフォルメされているし、たまに点にすらなる。そこがまた、作品のテンションや雰囲気と会っていてたまらないのだ。

 

『blue』はこれより前の作品だが、あのときはトーンによるグレーがほとんどないシャープなモノトーンが映えていて、目や下唇の影、ベタ塗りの服などにより、すごく黒の比率が多い画面だった。

物語も画風も、どこか哀愁が漂うというか、好きなんだけど、けして明るくなれるような作品ではない感じがあった。簡単にいうとクールだった。

 

しかし『ハルチン』では、気楽に読める画風や、コメディとしての物語が試行錯誤されており、まだ『blue』のときの感じが残っていた初期に比べ、中盤あたりで既に、ある程度『ハルチン』の世界観に手が馴染んでいる感じがあった。

 

『blue』以外の短編集も含め、人間の孤独や悲しさを描くのがとても得意な作家だったのだが、もしかしたら『ハルチン』によって、漫画家としての幅を広げることができたのかもしれない。

 

絵を見ても、透明な容器や袋、ガラスなんかを描くのが上手いのはデッサン力が高い証拠だし、女性らしい日常的なポーズや服が、すごく小慣れた感じで描かれている。

これまでもそうだし、連載しながらでも、おそらく身の回りの友達をはじめ、女の子をたくさん見ていたんだと思う。おそらく、意識的にというよりは「会うから自然と目に入る」という感じで。

だから「後ろから見たぺたんこ座り」みたいなめんどくさいポーズでも、自然にさささっと描けてしまうんだと思う。

 

このように、漫画家として、絵描きとしての変化や成長も垣間見れる作品という意味でも、絵描きや他の魚喃作品ファンにぜひ読んでほしい一作となっている。

 

 

魚喃万歳、なんなら新潟も万歳

 

すごくどうでもいいはなしだが、『blue』は新潟が舞台のお話だ。だから古町とか普通に出てくるし、主人公の家の人は新潟弁を話す。

 

実写化された時も、ロケ地の大半は新潟市だった。

古町をほんとに市川実日子小西真奈美が歩き、萬代橋を渡っていた。

 

ぼくは新潟が大好きだし、魚喃作品から感じる新潟も大好きだ。

『blue』は女子校が舞台だが、あれは明らかに清心女子高校時代の体験がベースになっている。物語も人物像も、自分自身や体験がベースになっているようだ。

 

新潟や、日々の生活、話したり会ったりした人の空気を感じて、それを漫画という形で表現できるというのは、ほんとに稀有な才能だと思う。

そういえるのは「表現できている」とぼくが感じているからで、新潟人だから正解を知っているからだったりもする。

 

ぼくにはできないことだから、この感覚的で、手先から流れ出るような世界をずっと見ていたい。

そして、多くの人に魅力を伝えたいと思う。

 

プロの絵を研究したいと思っていて、そのうちの1人が魚喃先生だった。

そんなきっかけで読み返し、そういうことを思い出した。

 

まちがいなくいつまでも持ってると思う。

魚喃作品はぼくにとってすばらしいアルバムであり、教科書なのだ。