林静一『美人画集』と中村佑介『わたしのかたち』から“絵の中の存在”を考えてみる。

 

今日の先生は林静一先生です。

 

林静一美人画集

林静一美人画集

 

 

イラストレーターの勉強として、中村佑介先生を敬愛する者として、林静一先生をおさえないわけには絶対にいかなかった。

 

見えてきたのは、「人物を描き、絵の中に“存在”させる情熱と技量、そしてただの絵に心が芽生え、存在へと昇華させるために越えるべき“沸点”という課題でした。

 

とりあえずは気軽に、レビュー感覚でご覧ください。

 

 

 中村佑介先生の“父親”として

 

ぼくは中村佑介先生を長いこと敬愛しているのですが、その中村先生が特に敬愛するイラストレーターの1人が林静一さん。

ぼくも一応美術系の学校で学んだ身ですから名前は存じておりました(ゆでめんくらいは知ってた)が、なにがそこまで魅力的か知りませんでした。

中村先生の画集は全部持ってるし、穴があくほど眺めたけれども、林先生の画集は見たことがありませんでした。

 

師を見るな、師が見ているものを見よ”と申しますゆえ、中村先生の見ていたこれにたいへんな興味が湧いたわけであります。

 

今回この『美人画集』を初めて開いて全ての作品に目を通し、模写してみた次第ですが、やっぱり見れば見るほど中村先生が受けた影響を感じさせました。

単純にポージングや、横顔が大半を占める作風などの“外側”の部分が目に入りますが、それ以上に感じるのは、描かれている彼女たちの目線の先でした。

 

少なくない場合において、絵の中の“彼女”は「何か」を見つめています。

風景でも、ものでも、こちらでもなく、まったく何にも意識が向いていない場合、彼女の目線の先はどこでもない「どこか」、あるいは「何か」を見つめています。

そしてそれは、おそらく彼女たち自身の内面性へと意識が向いていることを表しています。

 

それこそが両者の併せ持つ、中村先生が継承した魅力の根幹だといえるでしょう。

 

 

林先生の作品として一番知られているのは小梅ちゃんだと思います。

 

ロッテ 小梅(袋) 68g

ロッテ 小梅(袋) 68g

 

 

この少女に魅せられる人間は、必ず彼女の内面に意識が向きます。

「一体何を思っているんだろう?」と思わせるのです。

 

ロッテの小梅ちゃんの広告では、のちに林先生によって執筆された物語とイラストがシリーズとして雑誌に掲載されましたが、あれは後付けであって、このパッケージの小梅ちゃんが何を考えているのかはやはり不明確です。

 

その滲み出る心象を内包させた彼女のほどよい匿名性こそが、我々の心を惹きつけさせる最大の要因となっていると言えるでしょう。

本画集の収録作品、および中村先生の、特に林先生の影響の色濃い初期作品には共通して、そうした深い精神性の表現への熱意が見られます。

 

おふたりはその精神性について、“青春の匂い”という言い方をなさっています。

少女を描く中で、実は少女そのもの以上に、その向こう側の、思春期ならではの複雑で凝縮された精神性を表現したかったんですね。

その志向がおふたりの根底を結びつけている部分で、中村先生が歩んでいた、林先生と同じ道だったのでしょう。

 

Blue

Blue

 

 ↑初期10年分の作品が収録された中村先生の画集。

 

 絵の向こう側に流れる時間

 

わたしのかたち 中村佑介対談集

わたしのかたち 中村佑介対談集

 

 

“青春の匂い”のくだりは、この本に掲載された中村先生と林先生の対談から引用しました。

この対談には、他にもおもしろいお話があります。

 

中村:僕、女の子を描いていると、どんどん存在感が増していくというか、もしかして、ここで本当に女の子が生まれるんじゃないかという不思議な興奮があるんです。林先生の絵を見ても「この女の子はなにを考えているんだろう?」と思いますし……。そういう一種の思い込みや誤解が、自分の原動力につながっているような気がしています。

中村佑介著、青土社「わたしのかたち」 80Pより引用

 

初めて対談集を読んだときにも印象深かったおはなしでした。

 

今回ぼくが『美人画集』を模写していて感じたのは、「絵の中に発生している“時間”についてでした。

というのも、画集の14ページに掲載されている「お茶の時間」という作品を模写していて、ぼくは身震いするような気持ちを覚えたのです。

 

画集を開いて冒頭、ずっと横顔や振り向いたような構図が続きます。

細かな差異はあれど、少女たちの目線は得てして「横」を向いているのです。

横顔などはデザイン的にも構成しやすく、林先生も中村先生も頻繁に用いる構図です。なので逆に、そのフォルムは描きやすいものでした。

 

しかしページをめくって「お茶の時間」が現れると、正面を、つまり“こちら”を向いた構図に目がいきます。

そして打って変わって模写しづらくなったところで、「ん、これ正面じゃない?」と気づきました。

 

ぱっと見正面顔なのです。しかしビミョーーーーーーーーーーーーーに、ほんとに微妙に左を(彼女からすれば右を)向いて座っているのです。

その上で、はっきりと“意思を持って”こちらを向いている二つのくっきりとした黒目。

そのことから、「椅子の向きがこちらを向いていないが、こちらとの何らかのコミュニケーションによって、主に上半身が意識に伴ってこちらに向いている」ということがわかります。

 

これ自体はなんということもないことなのですが、ぼくはそれを思った瞬間、この絵に流れている「時間」に目を見張りました。

 

ごくごく微妙にうつむき、やや見上げるようになっている顔。

ほんのわずかに左に寄った角度。

その上でこちらを見据える確かな視線。

 

これは絵でありながら、たしかにこの女性はここに「存在」していて、はっきりとした「時間」が流れている。

それを確信し、はじめて林先生の巨匠たる“怪力”に打ち震えるに至ったのです。

 

こんな微妙なニュアンスを描けてしまうなんて……。

イラストレーションは情報の「量」と「構成」が要ですが、ここまで繊細な描写力に心を奪われました。

 

人はいかにして絵に恋をするのか

 

その後の作品を続けて見ていくにつれ、ぼくは描かれている“絵”“存在”へと昇華するある種「沸点」のようなものについて考え始めました。

 

絵と人間の違いは、「命があるかないか」です。

当然ですが。

 

しかし今回感じたのは、命がなくても心は宿るということでした。

 

林先生はイラストレーター以外に画家としての顔もお持ちなので、絵画的なメンタリズムを感じさせる作品も多数見受けられます。

絵画とイラストレーションの違いは、大まかにいうと純粋な“表現”を目的として自発的なものを描写する」のが絵画で、「広告や印刷物に使用されることが想定されており、情報伝達としての機能性を持っていなければならない」のがイラストレーションです。

 

中村先生も言及されている「モチーフとしての少女を絵の中に“実在”させる」ということについては、絵画的な要素とイラスト的な要素の双方からアプローチできます。

 

イラスト的な要素で言えば、例えば

「どんな服を着ているか」

「髪型はどうか」

「部屋はどんな感じなのか、散らかっているのか綺麗なのか」

「どこにいて何をしているのか」

「どんな表情を見せているか」

etc……といった、外見における様々な「キャラ付け」のような工程を踏むことにより、ただの絵だった人物に、生活の存在や感情、人間性が匂い立つのです。

 

絵画的な要素の場合は……ぼくはイラストを専攻していたわけで、正直よくわかりません。

「心をこめて描く」という身もふたもないことしか考えつかないのですが、おそらくこれはただの勉強不足です。芸術は曖昧で非言語的な要素を多く含んでいるところもありますから、そういうのは少し苦手。

ただ、イラストは芸術から派生したビジネスですから、美術的、解剖学的に正しい人間を描くのはいうまでもないところではあります。基礎中の基礎として。

 

デフォルメするのももちろんいいですが、あくまで基礎あってのデフォルメですからね。

 

これからのぼくの課題

 

これまでは、イラストレーションとして必要な

「情報整理」

「情報伝達」

「消費者心理へのアプローチ」

といった観点でばかり、自分の絵について考えていました。

 

お手本も、デザインテーマや市場へのアプローチとして優れた、あるいは売れてるイラストレーションばかり。

しかしここへ来て、純粋な美術的表現を模索した絵画作品が持つ、感覚的な部分へ訴えかける力について考え始めました。

 

絵の中の人物の存在感が増せば増すほど、見る人はその絵に、ただの絵以上の「何か」を感じて惹きつけられてしまう。その力が欲しい。

 

今後の課題として、先に述べた「沸点」への挑戦が浮かび上がりました。

ますますおもしろくなっていきます。